商人・文化人 戦国本の登場人物の紹介
上総介の読んだ戦国本に登場する人物を紹介。主人公や脇役の紹介はこちら

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

青地 与右衛門 あおちよえもん
近江の力士、織田信長が開いた相撲会で鯰江又一郎を破り優勝し、信長から熨斗付きの太刀と脇差を賜った、その後は信長に仕え、相撲奉行となる、馬も調教が得意であり、馬揃えの際には厩奉行となった

阿部 善定 あべぜんてい (阿部定善)
備前・福岡の豪商、阿部定善ともいう、宇喜多能家に仕えていたが商人となった、宇喜多直家の幼少の頃に庇護した

荒木 宗太郎 あらきそうたろう
長崎の貿易商人、元・肥後熊本の武士、長崎の飽の浦に屋敷を構え、自ら御朱印船に乗り込んで、ルソン、安南、シャム、カンボジアなどに赴き、朱印船貿易で巨万の富を築いた、コーチで安南国王の外戚の娘・王加久を妻とし、長崎・本石灰町に貿易の館を構えたという

池上五郎右衛門 いけがみごろうえもん
足利将軍家出入りの大工、北山第舎利殿金閣や東山第観音殿銀閣などの御殿を造営、足利義昭の新御所造営を差配し、織田信長の京での作事も一手に引き受けていた

和泉守 兼重 いずみのかみかねしげ
越前の刀工、伊勢・藤堂家に仕え主に江戸で作刀した、二代は上総介兼重と称したが、一説には和泉守兼重が後に上総介兼重を名乗り、初代と二代は同人であるという説もある、和泉守兼重は長曽祢乕徹(虎徹)の師匠鍛冶と有力視されている刀工

出雲阿国 いずものおくに
歌舞伎の祖とされる女性芸能者、その名は様々に呼ばれ、阿国・於国・お国・国・郡・久仁・おくに・くになどと書かれる、天正から慶長の頃京都・奈良で「ややこ踊」を行う女性芸能者がいて、その中で出雲大社の巫女といわれる女性が評判になった、慶長五年に「国」と「茶」の二人が後陽成天皇の女御近衛氏のために「ややこ踊」を演じたという「時慶卿記」の記事が史料上の初見とされるが、確実な史料に乏しく伝説的な人物となっている、小田原で没したとも、出雲で尼になりこの地で没したともいわれる

板坂 卜斎 いたさかぼくさい
武田信玄の御伽衆、武田滅亡後は徳川家に仕え医官となった

一咄斎 いっとつさい
堺の豪商・万代屋宗安、一咄斎と号す、千利休に茶の湯を学び、利休の娘を娶った

伊藤 久太夫 いとうきゅうだゆう
シャム・アユタヤの日本人町住人、アヤタヤ国王の使節の介添役として将軍・徳川秀忠に拝謁した

伊藤 道光 いとうどうみつ
京の秋米収納の総元締め、京の三条に屋敷を持ち、豊臣秀吉が京へ来るときの常宿としていた

越前屋 久右衛門 えちぜんやきゅうえもん
江戸時代の日本橋新材木町の材木商、もともと武家の出身だが、建設期の江戸に木材を運び巨万の富を得た、江戸商人の顔役であり、権力者と町人のパイプ役、幡隋院長兵衛のパトロン的存在

越前 康継 えちぜんやすつぐ
江戸時代の刀工、初代康継は通称を市左衛門といい、諸国を遊歴して技を磨き越前に定住、結城秀康の知遇を受け、やがて父・徳川家康の目にとまり江戸に召致された、家康より葵紋と「康」の一字使用を許され、「越前康継」を刀銘としている、初代の没後、長男・市之丞康悦が二代康継を継承、三代目より、康悦嫡男の右馬助が継いだ江戸下坂家と、初代康継三男の四郎右衛門が継承した越前下坂家の江戸・越前の二家に分立した

榎本 忠重 えのもとただしげ (榎本弥左衛門)
武蔵・川越の豪商、松平八右衛門忠勝が烏帽子親となって元服、『榎本弥左衛門覚書』を書いた

大蔵 太夫 おおくらたゆう
甲斐・武田家猿楽師、大久保長安の父、名は信安ともいわれる、祖父が大和国春日神社で奉仕する猿楽金春流の猿楽師で、父の時代に播磨大蔵に流れて大蔵流を創始したという

大村 由己 おおむらゆうこ
播磨・三木の僧侶、梅庵を称した、豊臣秀吉に取り立てられ還俗しお伽衆として仕えた、のちに大坂天満宮の別当となった、軍記「天正記」を著作、連歌・狂言・俳諧などの作品を残した

多門 兵助 おかどへいすけ
大和の工匠の名家、松永久秀の多聞城を築き、その櫓は多聞櫓と呼ばれた

小瀬 甫庵 おぜほあん (小瀬道喜)
美濃守護・土岐氏の支流、本名・小瀬道喜、又四郎・長大夫とも称し、甫庵はその号、医術を家業として豊臣秀次に仕えた、秀次滅亡後に堀尾吉晴に仕える、吉晴没後に流浪したが、息子が前田利家に仕えた縁で前田利常に仕えた、『信長記』『甫庵信長記』の著者

海北 友松 かいほうゆうしょう
狩野元信に画法を学び「海北派」を創始した画家、近江浅井家の重臣・海北綱親の五男、幼少の頃寺に入るが、浅井氏滅亡と共に海北家は断絶、四十一歳で還俗し海北家再興を狙ったが叶わず画家となった、明智光秀の重臣・斎藤利三と親交があり、山崎の合戦後に京にさらされていた利三の首を奪ったという

片山 宗哲 かたやまそうてつ
医師、片山俊実の子で医家・片山宗仙の婿となり家督を継いだ、一鴎宗虎に医学を学び豊臣秀吉に召されるが仕官を拒否、のちに宗虎の推挙で徳川家康に仕えた、関ヶ原の戦いのとき家康が寒疾になったのを一晩で治す、徳川家光が劇疾をわずらったのも治療、家康の末期にも診察をし、家康が自ら作った万病丹などの飲みすぎを注意して、信濃・高島に配流となった

狩野 永徳 かのうえいとく
狩野松栄直信の長子、名は州信(くにのぶ)、源四郎と称し永徳は法号、祖父・元信の指導で才画を伸ばし狩野派惣領として力感あふれる障屏画を創出した、織田信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」は永徳作、これは金雲の華やかな装飾性のなかに2500人近い画中人物を細密に描写した力作、また信長の安土城築城に際しては狩野派一門を率いて、天主や城内御殿の障壁画製作に心血を注いだ、それらは濃彩の花鳥・名所風俗を主体とする華麗極まる作品であったが、城とともに焼失した、以降も永徳は豊臣秀吉に起用され数々の作品を残している

狩野 三徳 かのうさんとく
室町御所お抱え絵師、狩野永徳の腹違いの弟

狩野 探幽 かのうたんゆう (狩野守信)
狩野孝信の子、母は佐々成政の娘、狩野永徳の孫、法号・探幽斎、名は守信、徳川家康に謁見し、江戸幕府の御用絵師となる、江戸城・二条城・名古屋城などの城の絵画や大徳寺・妙心寺などの障壁画制作に携わった、狩野宗家は継がず、鍛冶橋狩野家を興した

狩野 光信 かのうみつのぶ
狩野永徳の長男、織田信長に仕え、父とともに安土城の障壁画を描いた、父の没後は狩野派の指導者となり、肥後・名護屋城や徳川秀忠の邸宅などの障壁画を作成する、父の豪壮で大きな画図の様式から脱却し、中世の大和絵を取り入れながら、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを生み出した

神屋 紹策 かみやしょうさく
博多の海商、神屋宗湛の父で神屋家五代目

観阿弥 かんあみ
猿楽師、息子の世阿弥とともに能を大成した人物、名は清次、時宗の法名は観阿弥陀仏、その略称が観阿弥で、早くから観世大夫あるいは観阿弥、観阿として記録に登場する

上林 竹庵 かんばやしたけあん
家康に恩を受けた宇治の茶商、元は丹波の武士で近江佐々木義賢の後裔、上林政重、通称・又市、越前守、徳川家康に仕え小牧・長久手で戦功をあげ岡崎町吏とる、その後宇治で茶道を志し剃髪して竹庵と号す、伏見城籠城を願い出て奮戦し討死

城井 久右衛門 きいきゅうえもん
アユタヤ日本人町頭領、加賀前田家の牢人といわれる、日本人傭兵部隊の戦いにおいて戦死

木村 宗喜 きむらむねよし
将軍家茶道師範、古田家の茶頭、大阪の陣において大坂方に内通し、京都を放火しようとし画策、しかし御宿政友の密告で発覚し、家康暗殺計画の首謀者として捕らえられ、東寺にて磔にされた

北 長能 きたながよし (喜多長能)
猿楽師、北(喜多)七大夫長能、堺の眼科医・内堀道春の三男、北長宗の養子となる、金剛大夫の嗣子格となり金剛三郎を名乗り金春大夫安照の女婿となる、しかしその異能を見て子孫の仇となることを恐れ、安照は指導しなかったという、その後独立し喜多流を確立しその祖となった、大坂の陣では豊臣方につき戦った、その後浪人していたが黒田長政の推挙で許され、金剛七大夫を名乗り徳川秀忠の寵愛を受けた

北向 道陳 きたむきどうちん
堺の茶人で千利休の師匠、本姓は荒木氏、本職は医師といわれている、空海(島右京)に茶を学び、唐物の目利きに優れていた、利休がまだ与四郎と名乗っていた頃に友人・武野紹鴎に引き合わせたという

木屋 弥三右衛門 きややそうえもん
堺の貿易商人、朱印船でシャム、カンボジア、ルソンなどに渡って交易した、シャムの使節が二条城で家康に会見した時には通訳を務めている

清原 宣賢 きよはらのぶかた
朝廷に仕えた儒学学者、吉田神道にも通じ神道と儒学を総合した清原家神道を完成した、出家して環翠軒と称す、朝倉孝景の招きで越前・一乗谷に招聘されこの地で没した

国友 善兵衛 くにともぜんべえ
近江国坂田郡国友村の鉄砲鍛治、織田信長の鉄砲を主に作り長篠の戦いや九鬼水軍の鉄船などに鉄砲を提供した

組屋 源四郎 くみやげんしろう
瀬木町の豪商、小浜の船持商人の筆頭、鳥取城の兵糧攻めのときの米買いから豊臣家と密接なつながりを持ち、ルソンの茶壷を輸入したり、朝鮮出兵の兵糧米を肥前・名護屋へ運ぶ働きをした

甲良 光広 こうらみつひろ (甲良三郎左衛門)
社寺の建築造営を担う大工を職務としていた工匠、岡部又右衛門の下で安土城本丸御殿の作事を取り仕切った、丹羽長秀の御用大工を務めた、のちに藤堂高虎の下で各城の普請を行う

後藤 長乗 ごとうちょうじょう
金工家・後藤光乗の子、後藤徳乗の弟、後藤家を継いでいた兄が豊臣よりだったため、家康の治世では長乗が優遇された、京の後藤家を継いで大判造りを受け持つ(小判造りは江戸の後藤庄三郎)

後藤 徳乗 ごとうとくじょう
金工家の名門五代目、後藤光乗の子、後藤四郎兵衛、織田信長に仕え、大判金の製作を命じられる、その後豊臣秀吉に転仕した、秀吉の金子吹座となって京の金吹き業を独占、手代の庄三郎光次が江戸に下向し、徳川家康のもとで小判・一分金などの鋳造に当った

後藤 広世 ごとうひろよ (後藤庄三郎)
後藤庄三郎光次の子、二代目後藤庄三郎、幼名・お松、母の青山氏は家康の寵愛を受けた大橋局で、身籠ったまま庄三郎に嫁したといわれる、酒井忠世を烏帽子親として元服し広世と名乗り家督を継いだ

小西 如清 こにしじょせい
堺の豪商・小西隆佐の長男、小西行長の兄、和泉堺の薬種商

小西 隆佐 こにしりゅうさ
堺の豪商、小西行長の父、洗礼名・ジョウチン、備前の宇喜多氏に近昵する、キリシタンとなりフロイスを信長にあわせるよう力を尽くした、これを機会に信長に接近し、堺で有力な商人となる、信長没後は秀吉に取り入り、息子・行長を召しだした、またポルトガルと製糸貿易を行って巨富を得た

金春 重勝 こんぱるしげかつ
猿楽師で名人第八代金春大夫七郎重勝、大和で知行五百石を拝領した

里村 昌叱 さとむらしょうしつ
連歌師、里村紹巴の弟子、昌休の子、秀吉の命により連歌の宗家となり法橋に叙された

里村 紹巴 さとむらじょうは
連歌師、連歌師・周桂に入門、後に里村昌休の弟子となる、光秀の備中出陣の戦勝祈願に連歌会を開く、この「愛宕百韻」で光秀が天下を取る決意を表明したといわれる「ときは今天が下しる五月哉」を詠んだ、後に秀次事件に連座して蟄居

芝辻 清右衛門 しばつじせいえもん
堺の鍛治師、根来坂本に移り住んだ、津田監物が種子島から持ち帰った鉄砲と同じものを製作し、本州における最初の国産火縄銃となった

芝辻 理右衛門 しばつじりえもん
堺の鉄砲鍛治、芝辻清右衛門の孫、大坂冬の陣で徳川家康から大筒と五百丁の鉄砲製造を命じられ納品、その功績で高須地域を授けられ高須神社を建立した

島井 宗室 しまいそうしつ (島井茂勝)
博多の豪商・茶人、名は茂勝、酒屋・金融業を営み対馬を中継地とする対朝・対鮮貿易で富を築く、この間肥前の宗・松浦氏、豊後大友氏ら諸領主の軍資金などを調達し、諸種の特権を得た、また堺の豪商・茶人を通じて織田信長・豊臣秀吉に接近、京畿と博多を結ぶ流通経路を確保し、朝鮮・南蛮貿易商品の取引を行った、京の本能寺にいたときに明智光秀の襲撃に遭い、神屋宗湛と共に逃れた、秀吉の九州征伐後の博多復興の命を神屋宗湛とともに受けた、その後秀吉の対明国交再開交渉の命により、小西行長の代理として宗義智とともに朝鮮に渡って折衝を重ねる、しかし朝鮮の役では秀吉の派兵計画に反対して蟄居を命じられたともいわれる、なお石田三成の支持もあって宗湛らとともに、と共に博多兵站基地化をはかり、三成らとともに筑前の一揆対策、兵糧米の確保を行った、関ヶ原の戦い以降、黒田氏の筑前入国にともない福岡城築城に協力した

浄金 じょうきん
播磨・加古郡の地侍、野口八右衛門、隠居して浄金と称し、黒田官兵衛の御伽人となった

庄司 甚右衛門 しょうじじんえもん (庄司甚内)
もとは北条乱破であったという、江戸中の遊女屋の主人、江戸幕府から「五ヶ条の覚」という条件を許され、吉原遊郭を創設した惣名主

末次 興膳 すえつぐこうぜん
筑後・秋月の豪商、海外貿易で財を成す、キリシタンで洗礼名・コスメ、子は長崎代官となった末次平蔵

末吉 吉康 すえよしよしやす (末吉吉安)
摂津の豪商、末吉勘兵衛利方の子、末吉孫左衛門、父とともに伏見銀座の創設に参画、のちに家督を継いで幕府からの朱印を受けて海外貿易を展開し鎖国まで続いた、大阪の陣では徳川方のために尽力し、戦後に河内・志紀軍、河内郡の代官となった

鈴木 道胤 すずきどういん
品川湊の豪商、熊野海賊の出といわれる、足利成氏から蔵役を免除されたり、太田道真の連歌の会「河越千句」の興行にも参加している、子は幸純(幸順)

角倉 了以 すみくらりょうい
医家・吉田宗桂の子、医者になることを嫌って算数と地理を学ぶ、嵯峨野大覚寺の門前で角倉なる屋号の土倉を営み財を得る、その資金をもとに豊臣秀吉から朱印状を受けて安南と貿易を始め巨万の富を手にいれた、また国内の河川開発にも力をいれ、幕府の命で丹波・世嘉村と嵯峨を結ぶ大堰川、富士川、高瀬川の開発を行った、大坂の陣では家康に従い兵器・食糧の調達運搬に尽力した

諏訪 春芳 すわしゅんぽう
信濃を基盤とする豪商、武田信玄のもと、蔵前衆として直轄領の年貢の算用に従事し、古屋道忠・伊奈宗普・松木桂琳とともに蔵前頭となった、七十人の足軽を付与されている

世阿弥 ぜあみ
猿楽師、観阿弥の子、幼名は鬼夜叉、二条良基から藤若の名を賜る、通称・三郎、実名は元清、父とともに猿楽を大成し、多くの書を残した、観阿弥と世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている、父の死後、観世大夫を継いだ、四十代以降に時宗の法名である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった

雪舟 せっしゅう
画家、備中に生まれ、少年時代に京都相国寺に入り春林周藤につき禅僧となり、周文について絵画を学んだ、のちに周防・山口に移り大内氏の庇護をうけた、遣唐使・桂庵玄樹に随行して中国で絵画を学び帰国した、北九州・美濃・出羽・能登・京都など各地を遊歴し画業に精進した、水墨の山水画を日本の絵画として創りあげたものとして評価された

千少庵 せんのしょうあん
千利休の次男、利休切腹後に利休七哲であった蒲生氏郷を頼って会津に逃れた、その後に前田利家や徳川家康の取り成しで豊臣秀吉の許しを得て赦免され京に戻り千家再興を認められた

宗庵 そうあん
円乗坊宗円の婿、細川家の茶道方となる、古市流茶道の祖

宗養 そうよう (無為)
連歌師・宗牧の子、号は無為・半松斎、父の死後連歌師としての地盤や伝書を引き継ぐ、公家や尼子晴久・三好長慶などと交流があった、連歌集「石山四吟千句」「宗養句集」などがある

高尾太夫 たかおだゆう (仙台高尾)
江戸初期の吉原で有名な花魁、大三浦屋抱えの花魁が代々襲名した名前で、二代目が仙台藩主・伊達綱宗に身請けされたので仙台高尾と呼ばれた、綱宗は身請け代として高尾の体重と同じ重さの小判を払ったという

高木 彦右衛門 たかぎひこえもん
長崎の町年寄、彦右衛門貞親、代物替会所頭取兼船並武具預りに任ぜられ、幕府の役人として町人ながら苗字帯刀を許された、権勢を笠にきた横暴振りから使用人も増長し、鍋島藩深堀武士との間で喧嘩がおこり、彦右衛門邸に討入った深堀三右衛門とその倅嘉右衛門によって斬り殺された

武野 紹*鴎 たけのじょうおう *簡易慣用字体
茶人、堺の町衆、通称・新五郎、若狭武田家の末裔といわれる、若年より文芸を好み歌学の権威である三条西実隆から「詠歌大概」を授けられた、また大林宗套に参禅して一閑の居士号を与えられた、この和学と茶禅一味の境地に立って茶の湯に傾倒し、わび茶の思想を充実させ「わび」という美意識を確立させた、松島茶壺・玉?筆波の絵など名物を五、六十種を所持、唐物の名物道具を所持する反面、日本製の白天目茶碗を用い、茶杓や水指などを創造した、千利休を弟子としわび茶の大成に影響を残し、女婿の今井宗久、息子の武野宗瓦をはじめとした茶人がその茶風を慕った

武野 宗瓦 たけのそうが (武野新五郎)
茶人、堺の町衆、武野紹鴎の嫡男、幼くして父と死別し女婿の今井宗久に育てられた、成人後に宗久と父の遺産を巡って争い、織田信長の裁可に服さなかったため不遇に暮らした、茶人として活躍もしたが、武人を望んだため信長・秀吉から相次いで追放され晩年は豊臣秀頼に仕えた、大林宗套・春屋宗園に参禅した

橘屋 又三郎 たちばなやまたさぶろう
堺の商人、鉄炮の伝来と共に種子島時尭が複製を作らせた刀鍛冶・八板金兵衛清定に弟子入りし、その製法技術を身につける、堺で鉄炮の製造に着手し「鉄炮又」と呼ばれる大商人となった

立入 宗継 たていりむねつぐ
京都の商人、禁裏の金米の出納や貴重品の保管を司る禁裏上御倉職を務めた、近江・立入城主宗長の子、立入左京亮宗継、朝廷と信長の仲介役を務め、石山合戦時には和平調停に奔走した

田中 勝介 たなかしょうすけ
京都の商人、日本人で初めて太平洋を渡ってメキシコに行った人物、日本人二十三人を統率して三浦按針の作ったサン・ブエナベンツーラ号で航海した、翌年に日本へ帰国したがその後の消息は不明

田中 与兵衛 たなかよへえ (千与兵衛)
堺の町衆・田中千阿弥の子、父の一字を取って千与兵衛とも名乗った、千利休の父、堺の有力者で魚問屋を営み、一代で財を築いた、納屋十人衆の一人、法名は一忠了専

玉越 三十郎 たまきさんじゅうろう
清洲の具足屋、浜松城下にいたときに信長の勘気を蒙り追放された長谷川橋介・佐脇藤八郎・山口飛騨守・加藤弥三郎の四人と共に三方ケ原の戦いで戦死した

茶屋 四郎次郎清次 ちゃやしろじろうきよつぐ
京で茶屋を営むほか、呉服あきないや朱印船貿易で巨富をなした商人茶屋四郎次郎清延の次男、茶屋又四郎、家康の祖父の代からの松平家御用商人、初代の父は本能寺の変のとき信長の招きで堺にいた家康の伊賀越えに同行し、所持した金銀をふんだんにばら撒いて土豪たちを抑えた、二代目の長男・茶屋四郎次郎清忠が若死にしたため、三代目・茶屋四郎次郎清次と名乗った

中条 帯刀 ちゅうじょうたてわき
豊臣秀吉に仕えた有名な金創医(現在の産婦人科)、近代外科婦人科の祖、江戸時代には彼の名前を利用して堕胎を専門にする医師のことを「中条流」と呼んだ

長次郎 ちょうじろう (あめや長次郎)
陶芸家、楽焼の創始者で、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代、父は明出身の工人・あめやで母は比丘尼とされるが不明、利休によって、ろくろを使わず手びねりで成形を行なう独自の工法が認められ、茶碗を納めるようになった

津田 宗及 つだそうぎゅう
堺の豪商、天王寺屋津田宗達の子、織田信長、豊臣秀吉の茶頭を務める、北野大茶湯などの茶会に重要な役割を果す、茶道三宗匠の一人

津田 道叱 つだどうしつ (天王寺屋道叱)
堺の豪商・津田宗柏の四男で津田宗達の弟、津田宗及の叔父、商用で筑前博多に赴き、島井茂勝に茶の湯を教えた

津田 又左右衛門 つだまたざえもん
アユタヤ日本人町の頭領、山田長政がアユタヤに渡った頃に頭領となっていた、六百人あまりの日本人傭兵部隊を率いてアユタヤ国王に従った

鶴松太夫 つるまつだゆう
浅井久政に遊芸をもって仕えた相伴衆、小谷城落城時には久政とともに小丸に籠城し、久政自刃のときには介錯を務め、自刃した

出来島 隼人 できじまはやと
江戸時代初期の歌舞伎女、三河刈屋城主・水野勝成に見受けされた

天王寺屋宗達 てんのうじやそうたつ (津田宗達)
堺の豪商で茶人、天王寺屋宗柏の子、津田宗及の父、武野紹鴎に茶の湯を学び、下間氏や阿波三好氏と交流を結んだ、茶の名器を多数所有していた、大通と号し堺会合衆の一人で堺の自立に貢献、三好氏の御用商人となった

天王寺屋宗凡 てんのうじやそうはん
堺の商人、津田宗及の子、関ケ原のときには西軍の石田三成に組し、武器調達に奔走した、円座肩衝の茶入を継承した

天王寺屋道叱 てんのうじやどうしつ
堺の豪商で茶人、天王寺屋宗達の四男、津田宗及の弟、茶の湯を島井宗叱に教え「叱」の字を与えた

唐犬 権兵衛 とうけんごんべえ
幡随院長兵衛の弟分、江戸初期の町奴で 「唐犬組」の首領、 唐犬二匹を撲殺したので名づけられた、長兵衛没後に獄門に処せられたという

鳶坂 甚内 とびさかじんない
小田原北条家の遺臣、主家が滅んだのちに盗賊の頭となって江戸を荒らしまわる、のちに盗賊をやめて古着屋となった、徳川家康との取引で古着屋の権利独占をする代わりに江戸の治安維持に協力したという、庄司甚内・向崎甚内とともに江戸の三甚内と呼ばれた

虎屋 九右衛門 とらやきゅうえもん (虎屋九左衛門)
大阪の物産問屋、河合又五郎の妹を妻とする、筑後柳川・田中家の家臣であったが、主家断絶後に商人となった、又五郎を匿い随行して鍵屋ノ辻の仇討ちに遭遇した

中井 正清 なかいまさきよ
中井正吉の子、初代京都大工頭、関ヶ原の戦い後に徳川家康へ作事方として五百石で仕えた、二条城築城に従事し大和守を授けられる、その後も江戸城建設、駿府城の天守閣、江戸の町割り、内裏、増上寺、方広寺大仏殿、日光東照宮など、幕府関係の重要な建築の多くを担当した

半井 驢庵 なからいろあん
御所の名医の家系、若い頃は美濃の斉藤道三に仕え、墨俣の合戦で目に矢を射かすめられてつぶした、茶道にも長け名器を見るために信長がしばしば訪れたという

納屋 宗次 なやそうじ
堺の豪商、堺の三十六人会合衆のひとり、今井宗久を養い、武野紹鴎に紹介したという

奈良屋又兵衛 ならやまたべえ (奈良屋長左衛門)
京の油問屋主、娘を庄五郎(または庄九郎)と呼ばれた後の斉藤道三に嫁がせる、庄五郎の出世を金銭面から助けた、小説によっては又兵衛、長左衛門など呼ばれている

西村 道仁 にしむらどうじん
釜師・西村家の始祖、京都三条釜座に住み、武野紹オウの釜師として著名であった、織田信長から「天下一」の号を許された、鋳物にもすぐれ、梵鐘・灯籠・擬宝珠などに在銘作がある

秦 宗巴 はたそうは
丹波の薬師、字は徳岩または立安、医学をめざして意庵宗桂の門弟となる、その後曲直瀬道三が築いた啓迪院で医学を学んだ、さらに漢方の研究を行い豊臣秀次の薬師となった、秀次から近江に一千石を与えられる、この頃に壽命院と称する、薬の調合が徳川家康に気に入られ、京での家康の侍医となり、山城・大和で五百石を加増される、徒然草を注釈したことでも有名

秦 徳隣 はたとくりん
丹波の薬師・秦宗巴の養子、宗巴の娘を妻とした、字は有室、養父の死後に跡をついだ

林 又一郎 はやしまたいちろう (林与次兵衛)
京の六条柳町と伏見の遊里の名主、また四条河原の遊女歌舞伎の座主でもあった、原三郎左衛門とともに秀吉の許可を得て、京に二条柳町遊郭を設立、その後二条城造営のために六条に移転して京・島原遊廓と呼ばれた

林 羅山 はやしらざん
江戸前期の漢学者で朱子学派、林信勝、通称・又三郎、剃髪して道春、京の町人の子として生れた、幼少で出家しその後に藤原惺窩の門下となる、関ヶ原後に徳川家康に仕え、四代将軍・家綱まで仕えた、私塾聖堂(後の弘文館)を創建した、崇伝とともに豊臣家滅亡を策した

林 春勝 はやしはるかつ (林鵞峯)
林羅山の三男、漢学者、林鵞峯、僧号は春斎、父・羅山や那波活所、松永貞徳に師事する、徳川家光に仕え外交の諮問をつとめた、幕府の命で父とともに「諸家系図伝」「本朝通鑑」の編纂に従事した、著書に「鵞峰全集」「日本王代一覧」「国史実録」 がある

林 春信 はやしはるのぶ (林梅洞)
林鵞峯の嫡男、林羅山の孫、漢学者、林梅洞、二十四歳で没した

万里 集九 ばんりしゅうく
禅僧で詩人、京の臨済宗東福寺永明院の僧、相国寺で修行するが応仁の乱で相国寺が焼失すると近江などへ移った、その後還俗し美濃の斎藤妙椿や尾張などに下向、太田道灌に招かれて江戸城に滞在した

日比屋 了珪 ひびやりょうけい (日比屋了慶)
堺の豪商、櫛屋町でマカオ火薬の輸入などを商いとした、フランシスコ・サビエルが堺を訪れた時に手厚くもてなした、のちにガスパル・ビレラによって洗礼を受け、ジャック・ヒンフラ・リョウケイと呼ばれた

藤原 惺窩 ふじわらせいか
別所長治に滅ぼされた冷泉為純の三男、幼少で剃髪して宗舜と称す、京都で叔父泉和尚のもと相国寺で仏教と儒学を学んだ、秀吉のもとに来た朝鮮の使者と筆話をしたという、秀吉没後に家康の再三の招きを固辞した、門下に林羅山や浅野幸長がいる

ノ貫 へちかん
京の茶人、曲直瀬道三の姪婿、茶の湯を武野紹鴎に学び、山科に居をかまえて奇行をもって知られる、北野大茶会で豊臣秀吉から賞賛され、諸役免許の特権を与えられた、千利休などとも親交があった

法栄 ほうえい (小川法栄)
駿河・小川郷の商人、天日製塩と沿岸交易を生業とした、遣明船貿易にも参加、今川義忠没後の内紛を避けるため、義忠の嫡子・竜王丸と北川殿を一時匿った

北庵法印 ほくあんほういん
興福寺に属す医者、嶋左近の舅、『多聞院日記』の著者の一人

本阿弥 光悦 ほんあみこうえつ
京都の富豪、刀剣の鑑定・磨き・浄拭を家職とした、近衛信尹、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」の一人、美術工芸面にも優れ当代の日本文化の最高峰だった

本阿弥 光温 ほんあみこうおん
刀剣の鑑定・磨き・浄拭を家職家の十一代目

松井 友閑 まついゆうかん
織田信長の右筆、堺の代官、茶湯に対する造詣が深く、本能寺の変前に徳川家康らを茶会でもてなした、信長死後は豊臣秀吉に仕え堺政所となる、しかし後に罷免された

曲直瀬 正紹 まなせまさつぐ (曲直瀬玄朔)
医師、曲直瀬正盛の養子、道三、法名・玄朔、正親町帝を診察して法眼、のちに法印、豊臣秀吉に仕え録を賜る、のちに豊臣秀次に仕えたが、秀次自害の際は連座して蟄居、のちに赦免されて徳川家康・秀忠に仕えた、医学面だけでなく茶道・香道にも通じた、著書「玄朔道三配剤録」「医方明鑑」等多数、調合剤屠蘇白散は良薬であったという

曲直瀬 正盛 まなせまさもり (曲直瀬道三)
医師、近世季・朱子学の租、はじめ京都の相国寺等で経詩文を学んだが、のち田代三喜に医を学び、足利義輝・毛利元就・織田信長らに仕えた、特に元就に政治上の意見を述べた『九十箇条陳上書』『啓迪集』は有名

三浦屋 四郎左衛門 みうらやしろうざえもん
新吉原の初代総名主、お抱えの遊女に高尾太夫という絶世の美女がいて、仙台藩主・伊達綱宗に見初められて落籍されたが、金や権力になびかなかったため船中に吊るされて殺されてしまった、これが高尾稲荷社ができた由来

味方 家重 みかたいえしげ (味方但馬)
三方貞政の子、三方貞重、福島正則の家臣であったが、武門を捨て佐渡に渡って山師となった、佐渡で鉱山経営に手腕を発揮し、湧水のため操業が困難だった割間歩の稼業権を引き継いで、ヨーロッパの技術を取り入れた水貫きの坑道を掘るなど、鉱山を繁栄させて江戸幕府に多額な上納金を納めた、家康に謁見して家康の命で「味方家重」と称した

御宿 友綱 みしゅくともつな (御宿監物)
駿河の国人、駿東郡御宿の領主、葛山氏の一族、武田氏に仕え、葛山信貞を補佐、駿河駿東郡を支配した、武田信玄の侍医、『御宿監物書状案』を書いた、武田家滅亡後も存命している

武蔵屋伊兵衛 むさしやいべえ (加藤浄与)
加藤数馬、仙台伊達藩の旧藩士で島左近の遠い血縁、叔父にあたる人物の不始末に連座して伊達家を致仕、京へ出て豪商に人柄を見込まれ呉服屋を始める、屋号は武蔵屋伊兵衛、関ヶ原合戦後には左近の娘・珠を養育した

村田 道庵 むらたどうあん (村田道珍斎・村田助六)
加賀・前田家の侍医、村田助六、村田道庵と称した、宇喜多秀家が八丈島に流罪となると、妻の豪姫から懇望されて渡島した

村松 芳休 むらまつほうきゅう
笛の名手、伊勢山田の住人、武田信玄が野田城攻めを行なっている際に、聞き惚れたと伝説が残っている

村山 等安 むらやまとうあん
長崎代官、安芸または尾張の出身、キリシタンで洗礼名・アントニオ、長崎に移り住んで南蛮菓子屋を営み、末次興膳の支持を得て台頭、朝鮮出兵の時に九州に下向した豊臣秀吉に謁見して、秀吉から長崎代官に任ぜられた、のちに長崎奉行・寺沢広高の代官となり、貿易の権限を持って巨利を得る、その後台湾遠征に失敗、キリシタン信者ということを密告され、大坂の陣で豊臣家へ内通した疑惑で処刑された

鵙屋 宗庵 もずやそうあん (満代屋宗安)
堺の商人で茶人、関ケ原の前に石田三成へ陣中見舞いに訪れたとき、茶器「唐来肩衝」を託された(神谷宗湛に託したともいわれる)、戦後に黒田長政に「唐来肩衝」を召し上げられ徳川家康に献上された、この後、宗庵は黒田家に仕える

施薬院 全宗 やくいんぜんそう
京の医師、丹波姓を称す、宗忠の子、比叡山の薬樹院に学ぶ僧で、織田信長の焼き討ち後に還俗、曲直瀬道三の門下となり医術を修め、豊臣秀吉に仕えた筆頭侍医となる、秀吉の推挙で朝廷から施薬院使に任ぜられ施薬院と称した、千二百石を領して比叡山復興に尽力、朝鮮派兵に際しては秀吉に従い名護屋に出陣した

施薬院 宗伯 やくいんそうはく
施薬院全宗の養子、養父の死後に家督を継いだが、豊臣家を見限り徳川家康に取り入った、関ヶ原合戦で上杉討伐に付き従い軍医の役目を果たした

山崎 闇斎 やまざきあんさい
江戸前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家、京で生まれ幼くして比叡山に入り僧となる、のちに土佐の寺に移り朱子学に傾倒して還俗、儒者となった、その後会津藩主・保科正之に迎えられて幕政にも助言、また神道研究にも取り組んだ、闇斎の提唱した朱子学を闇斎学、神道説を垂加神道と称し、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた

山崎 秀仙 やまざきひでのり (山崎専柳斎)
上杉謙信の家臣、儒学者、奉行職も務めた、号は専柳斎、もとは佐竹義重に仕え、上杉謙信の招きで登用される、謙信に中国思想家・賢人について教授、そのほか連絡役や使者の役目も果たした、謙信死後の御館の乱では景勝派に属す、乱後の論功行賞で寝返り組への恩賞授与に反対、これに怒った毛利秀広により、春日山城内で直江信綱と会談中に共々斬殺された

山田 右衛門作 やまだうえもんさく
有馬家に仕えた絵師、宣教師から南蛮画法を学ぶうちにキリシタンになったといわれる、禁教令が出てから棄教して帰農していたが、島原の乱に参加し陣中旗を描いた、乱の鎮圧後も生き残った数少ない人物

山上 宗二 やまのうえそうじ
茶人、堺の町衆、堺の山上に住んだことから山上が通称となったが屋号は薩摩屋と称する町衆で、千利休に茶を学んだ、その実力もさることながら、歯に衣をきせぬ厳しい批評眼をもち、憎まれるところもあった、織田信長・豊臣秀吉に茶堂として仕え、豊臣秀長を招いての茶会の記録などが残る、しかしその直言が忌避される原因となって秀吉から追放され、小田原北条氏に仕え、この間に「山上宗二記」と題される茶の湯伝書を著した、同書は千利休時代の茶の湯をみる根本史料となっている、小田原の陣のおり利休の介添えで秀吉のもとに一度は帰参したが、まもなく処刑された

横田 俊益 よこたとします (横田三友)
会津藩の教学の祖、号は三友、神童と言われ堀杏庵・林羅山に学ぶ、会津藩主・加藤明成に仕えて信任を得てその後の藩主となった保科正之に仕えた、学問所・稽古堂を創設し藩士子弟の教育に当たる

和田 治太夫 わだじだゆう
近江・日野の鉄砲鍛治年寄、和田家は代々治太夫の名を当主が使い、明治時代まで鉄砲鍛治を生業とした

渡辺 小左衛門 わたなべしょうざえもん
島原の大庄屋、益田甚兵衛の妹婿、天草四郎時貞の叔父、一説には父ともいわれている、島原の乱勃発後に幕府方に捕らえられ、原城落城後に打ち首となった


*印は著者の創作人物または実在したかどうかは不明な人


あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行
武将の妻・子
 商人・文化人 天皇・公家 僧侶・忍者等 外国人

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