博多の豪商・茶人、名は茂勝、酒屋・金融業を営み対馬を中継地とする対朝・対鮮貿易で富を築く、この間肥前の宗・松浦氏、豊後大友氏ら諸領主の軍資金などを調達し、諸種の特権を得た、また堺の豪商・茶人を通じて織田信長・豊臣秀吉に接近、京畿と博多を結ぶ流通経路を確保し、朝鮮・南蛮貿易商品の取引を行った、京の本能寺にいたときに明智光秀の襲撃に遭い、神屋宗湛と共に逃れた、秀吉の九州征伐後の博多復興の命を神屋宗湛とともに受けた、その後秀吉の対明国交再開交渉の命により、小西行長の代理として宗義智とともに朝鮮に渡って折衝を重ねる、しかし朝鮮の役では秀吉の派兵計画に反対して蟄居を命じられたともいわれる、なお石田三成の支持もあって宗湛らとともに、と共に博多兵站基地化をはかり、三成らとともに筑前の一揆対策、兵糧米の確保を行った、関ヶ原の戦い以降、黒田氏の筑前入国にともない福岡城築城に協力した
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