姫路藩主・池田利隆の子、池田輝政の孫、母は徳川秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴子、父の没後に家督を相続したが幼少のため因幡鳥取三十二万石に転封、徳川家光の参内に扈従し家光の偏諱を拝受し光政と称す、本多忠刻と千姫の娘・勝姫を徳川秀忠の養女として娶った、岡山城主・池田忠雄が死去したとき子の光仲が幼少のため、光政が岡山へ光仲が鳥取へ国替えとなった、のちに嫡子・綱政に藩主を譲り隠居する、名君の誉れ高く、仁政理念と質素を旨とする備前風を広め、家臣修学の道場や庶民のための手習所を設立、農民の撫育・年貢増徴・農民の自立化促進・新田開発など、向学や民政に尽力した、また領内の寺院・神社の整理や宗門改役におけるキリシタン神道請制の採用などの宗教政策を実施した
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