黒田孝高の家臣。通称・又兵衛。隠岐守。
後藤氏は、姫路の北東に位置する春日山城に数代栄えた地侍。父・新左衛門基国は始め別所氏の家臣だったが、後に小寺政職に仕た。
幼いときに父が没したため、叔父の藤岡九兵衛に養育された。
その後、藤岡九兵衛が謀叛の疑いで一族追放となり、又兵衛は仙石久秀にお預けとなった。
黒田長政の代に栗山四郎右衛門の与力として召し返され、百石を拝領しする。
天正十五年の九州征伐に参戦。文禄の役の普州城攻めでは、堀兵右衛門と共に一番乗りを果たし、続く慶長の役でも先手を務めた。
慶長五年の関ヶ原合戦では黒田長政の先手を務め、矢傷・刀傷をものともせず勇猛果敢に攻め立て、体には五十三個所の傷痕があったという。
長政の筑前入国後は大隈城一万六千石を拝領し、隣国に対する抑えとなる。
ところが細川氏と音信をかわしたために叱責を受け、それがもとで黒田家を出奔。
又兵衛の勇名を知る細川、池田、福島家等から仕官の声がかかるが、どれも黒田長政の横槍のためにままならず、結局豊臣秀頼の大坂城に迎え入れられた。
元和元年、大阪夏の陣の道明寺河原で伊達軍の銃弾にによって討死した。
子孫は尼崎・熊本・鳥取の各藩に仕えた。
妻:?
父:後藤基国
子:左門基則、弥八郎、佐太郎、又市郎、基芳、久馬之助、その他女子四名
兄弟:?
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